波佐見町と有田町は、お互いに県境で接しています
波佐見町と有田町は、お互いに長崎と佐賀の県境に位置しています。
現在は、行政単位により波佐見焼、有田焼との呼び名がありますが、実質上、元々の水脈は同じものです。400年以上の昔、朝鮮人陶工による肥前地域での陶工活動が、波佐見焼、有田焼、お互いのルーツになります。
この地域でつくられた磁器が、伊万里という積出港の名をとり「古伊万里」や「Imari」と呼ばれ、明治に至り、鉄道開通によって有田駅が陶磁器運搬の出発点になると、呼び名が「有田焼」となります。現在では全国的な地域ブランドである有田焼も、生産地は現在の有田や伊万里の大川内、波佐見などのエリアにまたがっていたのでした。
現代の名工 竹ノ下左千夫の「青以窯」
前置きが長くなりましたが、現代の名工として著名な竹ノ下左千夫さんは、その波佐見町で平成元年(1989年)に窯を開き、30数年に渡る陶芸活動に従事しています。窯の名は「青以窯」。絵付け師であったお父様の雅号「青以」からとった窯名とのことです。
そのお父様が、現在の左千夫さんの才能を見抜いた最初の人だったのです。4人いる息子の中で、音楽などに熱心な三男の左千夫さんの様子を見て「おまえは絵付けに向いとる」と言われたそうです。その言葉を受けてか、お父様の後を継ぐように、24歳のときに左千夫さんは絵付師の道を歩みました。
現在の波佐見焼も有田焼も、細かい分業に分かれており、しかもいったん決められた職人作業は、たとえばろくろ成形ならその道だけに、絵付けならばその道だけに、従事していくことになります。
ところが左千夫さんの思いは、絵付けだけの分野に留まらず、ろくろ成形から絵付けを含む「加飾」の分野へ、さらには焼成という焼物の最終段階に至るまで発展していきます。つまり、器の原型をつくり、そこに彫ったり絵を施したり、釉薬や絵具の研究をしたり。さらには、完成品として世に生み出す焼成という段階まで、独力でやりこなす創作者となったのでした。
それが陶芸作家、竹ノ下左千夫を特徴づけるひとつでもあります。
竹ノ下左千夫さんのタイトルについて
お父様の見る目は、そんなところまで見透していたのかもしれません。
伝統工芸士や一級技能士のタイトルを持つ竹ノ下さんですが、それらはろくろ部門での肩書です。絵付け部門については、絵描きがもともと自分の属性のようなものだから、(人さまの評価は)どうでもいいとのことでした。
竹ノ下さんが創作上、師と仰ぐのは板谷波山です。板谷波山(1872~1963)は、日本近代陶芸の開拓者とも言われる人で、陶芸をいわゆる職人技ではない「アーティスト」による創作物として、そのステイタスを高めた人です。
発色のほんの一部を動画で再現します
青以窯、工房の様子をごらんください
工房にある板谷波山の写真集を見せていただくと、竹ノ下さんの作風がいかに波山の影響を受けてきたかよく分かります。
動画は、波山もよく使っていた薄いピンクの発色を実技で見せていただいたものです。
竹ノ下左千夫さんの工房に置かれている作品もスライドでご覧ください。