【有田陶磁美術館】

説明;有田町文化財課 有田町歴史民俗資料館 永井 都様

有田陶磁美術館、建築物の特性として

まず最初にこの建物の特性からご紹介させていただきたいと思います。

こちら有田町の内山地区は、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されており、実はこの陶磁美術館の建物自体も、内山地区を構成する伝統的建造物の一つになっています。この建物の建造は明治7年、平林伊平という窯焼の方の手によるものです。

有田陶磁美術館外観

その方の石倉、つまり倉庫として建設されました。この敷地(現在の駐車場スペース)は、旧商工会議所跡地であり、この辺り一体は平林家の住宅でした。ちなみに、この石倉としての建物と、すぐ近くにある国指定の重要文化財 旧田代家西洋館、このふたつの建物にはちょっとした逸話があります。

旧田代家西洋館

明治7年に建てられた有田陶磁美術館と、明治9年に建てられた旧田代家西洋館。西洋館を建てた田代助作の父、紋左衛門が息子へ送った手紙に「異人館(西洋館)を建てていると聞いたがそれは真か、今は不景気の半ばで何か為すならば将来を見据えて資産を運用すべきで、(西洋館のような建物を)建てていることは、まるで平林の石倉と一緒だと人々はみなしており、はなはだ悪い評判が聞こえているぞ」というような内容です。この文中の「平林の石倉」こそが、現在の有田陶磁美術館というわけです。参考リンク元>>>

明治の人たちにとっては、西洋館ばかりでなく、この建物もとても奇妙に映ったのでしょう。この二つの建物が、このように現在も残っています。

入口の石碑(蒲原有明の詩)について

ところで、この建物の入り口に有名な蒲原有明の詩の石碑があります。昭和40年頃に設置されています。

象徴派詩人 蒲原有明作(父は佐賀県白石町須古出身) 代表作「有田皿山にて」明治41年病を得た有明が妻、喜美子の実家、有田町蔵宿の酒造業西山家を訪ねた折、有田の町並みを散策してこの詩想を得た、哀愁と倦怠をかもし出す詩は当時の有田皿山を見事にうたっている。詩の一部分が有田陶磁美術館の壁面に陶板で埋め込んである。引用元>>>

蒲原有明の功績を讃えるための石碑の場所を探している際、有田陶磁美術館の壁に焼き物で作ってしまえば、誰にも忘れ去られることがないだろうということで、この位置に設置されたとのことです。

この陶板のサイズは、当時として最も大きく作れるサイズだったらしく、実は陶板の技術的にもなかなか見どころもあるわけです。そういった、良きものを後世に残そうという、人々の気持ちが、この石の壁に陶板の形で残されているわけです。現に60年近く残っているわけですから、生きた実例とも言えるわけですね。

歴史 当時は世界に3つしか…そのうちのひとつ

建物の説明はこれぐらいにして、館内に入って行きたいと思います。さて、この有田陶磁美術館、2階建ての小さい建築物ですが、小さいながらもこの美術館のオープンは、昭和29年であり、佐賀県の登録博物館第一号になります。世間では、今でこそ美術館、博物館というものが結構多くなってきましたが、当時このようなものを研究する場所は、佐賀県で皆無でした。

皆さんここで「九陶(九州陶磁文化館)があるじゃないか」と思われますが、九陶は、もっと後の時代になります。当時、世界で三つしかなかった陶磁器博物館のうちのひとつ、陶磁器専門の博物館として、こちらが開設されたわけです。すなわち、この時代この種の博物館は、何処にも無かったと言えるわけです。当時、多様な資料とか、昔の発掘関係の資料等がここに集められており、実は現在、それらの多くは歴史民俗資料館の方に移管されています。

陶磁美術館のコンセプトとして

過去において、この美術館には、鍋島様式や古伊万里様式、柿右衛門様式など、各様式のダイジェスト版をお見せする、という展示構成になっていました。それが、平成30年を契機として、大幅な変更をいたします。平成30年は、旧田代家西洋館が国の重要文化財に指定された年です。距離的にも歴史的にも、この二つの建物は関係が深いことを考慮し、この美術館の方向性も検討することになりました。さらに、別個の博物館として「九陶(九州陶磁文化館)」があります。九陶には、蔵書数にしろ所蔵品にしろ、良いものをたくさん取り揃えています。この美術館は、九陶とは別のアプローチ(差別化)が出来るのではないか、そう考えて、現在のような展示方法をとるに至っています。

「染付有田皿山職人尽し絵図大皿」

すなわち、建物自体が明治のものなので、中身も明治に特化したものでいこうじゃないかと。ただ例外はあります。3ケースだけ異なるもの、江戸期のものがあります。それが中央の二つです。

ひとつは、皆さんがよく見られている、有田町の顔ともなっているものですね。「染付有田皿山職人尽し絵図大皿」佐賀県の重要文化財となっています。通常、焼き物が文化財として指定されるとき、それは「美術工芸品」としての指定が主となっています。しかしこの作品については「歴史資料」として指定されている点に特長があります。絵が綺麗とか美術工芸品として優れているから、文化財に指定されたというよりも、中に書いてある内容にポイントがあります。これは、江戸後期の作なのですが、当時の焼き物の、製作工程から人々の様子を克明に映し出しているということにおいて、高い評価を受けている次第です。

「陶彫赤絵の狛犬」

同じく県の指定文化財「陶彫赤絵の狛犬」。もともと泉山の弁財天社に奉納されていたものが盗難に遭い、有田に戻ってきたという伝説があります。参考リンク元>>>

展示品を見るポイントは「比較」

次に、こちらの展示ケースがいわゆる皆さんが有田焼だと聞いて、まず真っ先に思い浮かぶであろうものです。つまり海外輸出の製品です。17世紀末から18世紀初めにかけて江戸時代の海外輸出が勢いづきました。その時に輸出された製品群のコーナーです。

なぜこれを展示しているかの理由を申し上げます。それは、一定の「比較」をしてもらいたいからです。こちら一階の展示室では、いろんな比較をしております。まず、江戸時代の輸出品と、明治に入ってからの輸出品との比較です。

ということで、江戸時代の輸出品との比較として、一番奥のコーナーをご覧ください。江戸時代の輸出は、1757年を最後に公の貿易は一旦途絶えます。それから約100年経て、海外貿易が復活します。幕末の時代ですね。この時に復活した最初のものが、久富家の製品ということになります。久富家は、当時、佐賀藩から陶磁器の海外への独占販売権を与えられており、そこで陶磁器の販売を開始しました。

江戸時代の貿易 久富の時代から田代の時代へ

次に久富家が持っていた権利を譲り受けたのが、あの田代家…例の「旧田代家西洋館」の持ち主の方です。旧田代家西洋館を作った人たちによる製品群はこういうものであった、ということで、久富と田代の比較や共通点もここで行っていただければと思います。

久富家と田代家の製品を見てきましたが、次のコーナーは、今も残っている辻精磁社、辻家の製品になります。先般より色んな「比較」があると申しておりますが、ここも「比較」のポイントとして挙げておきたいと思います。久富と田代の製品との共通点を言えば、いわゆる商人的な発想のもとに作られているということです。つまり、海外で売れるもの、海外で流行しているものを作って売るというテイストの作品になっています。

商人発想と窯焼発想の比較

商人の発想に対して、窯焼の発想する作品というのは、例えば、自分たちの窯の技術の粋を尽くした作品、自分たちの技術力を見せつけるような作品が多くあります。デザイン的にもちょっとテイストが異なってきています。辻精磁社さんは今でも、ちょっと独特なデザインをされています。まさにあの辻っぽいデザインというか、その特長が顕著になっているので、このように、商社の製品と窯焼の製品というのも見比べていただきたいと思います。

江戸期の輸出と明治期の輸出

冒頭に説明しました、江戸期の輸出品と明治期の輸出品との違い、ここで明治期の輸出品を見ていただきたいと思います。明治期の海外に向けて出された製品の特長もよくご覧になってみてください。また、いわゆる万国博覧会向けの製品も展示しています。

目録にないものもあるので「伝」でしかないのですが、奥の青赤の製品に関しては、買い求めた先がアメリカですので、おそらくフィラデルフィア万博《明治9年(1876年)》に出展された同種のものと推測されます。残念ながら目録上にあるものと名前が一致してませんので、確実ではありません。ただその辺りの時代に、フィラデルフィアに行った製品であろうと推測されるわけです。あの当時ものすごく流行していた、いわゆるジャポニズム形式の作品になります。

対してこちらに置いてある大皿。こちらは「伝」《明治11年(1878年)》パリ万国博覧会に出品したものと推測されています。今、全部推測として申し上げているのは、裏付けが取れてないからです。つまり出品目録にない。可能性は十分にあるのだが、買ってきたり、貰ったり、その物が送られてくる最中に、言い伝えだけが残されているという状況です。

荒物(大物)づくりについて

奥にあるのが、それらを製作するために使った木型です。当時、大物製作で有名だった黒牟田の窯焼が型を作り、絵付けは発足したばかりの香蘭社が行っています。裏面に両方の銘が入っています。明治に入ると、製造者の銘を入れる風習が定着してきます。

中央の二つのものに関してはこれ、皆さん実は、別の場所でここの窯の製作物というのは、よく見てるものなんです。陶山神社への奉納品として、磁器製の狛犬(明治20年)、大鳥居(明治21年)、大水甕(明治22年)などがあります。そのうちの一つの大水甕が、この二つと同じ窯元、藤崎太平窯からのものだと推測されています。ろくろの大物引手名人である井手金作と、絵付け名人の川浪喜作の手によるものではないかと言われています。

この二人の作品については、2階にもう一つございます。それでは2階にまいりましょうか。この美術館は小さいのですが、建物の特異性でお客様が驚かれます。まず天井の梁や建物の内部構造にびっくりされることがあります。この館のコンセプトが「明治」であり、明治から昭和にかけての焼き物を、雰囲気込みで楽しむというのが、当館のコンセプトになっています。

2階展示場、明治の名工の作品群

ここからは、大体時代順であったり、窯別に分けてあったり、窯がわからないようなものは、奥にまとめて展示してあります。ということで、いわゆる明治の名工の作品が展示されており、こちらは香蘭社の初期メンバーの一部である、深海墨之助・竹治兄弟がいた窯となっています。

明治から大正にかけて、有田にはたくさんの商社さん、窯元さんたちが出てくることになります。(江戸時代については、歴史民俗資料館の方でまた詳細の説明を加えさせてもらいます)

有田焼、洋食器への向き合い方

こちら中央のケースは、洋食器をまとめた展示になっています。従来、私たちは、日常的に洋食器と和食器を、それほど意識的に使い分ける、ということをしなくなってきたようです。せいぜい、パスタにはパスタ皿、和食の時には、向こう付けを使うという程度ではないかと思われます。このように和食器と洋食器の使い分けは、日常生活で最近はもう稀有になってきたのではないでしょうか。

和食器と洋食器、実は製作面においても、結構大きな違いがあったようで、明治に入った直後、日本人は食器をずっと作ってはきたけれども、洋食器を作る技術は殆どなかったわけです。明治の初期に、海外からの技術を仕入れながら、作り上げてきた洋食器群がこちらに展示されています。これらの製品は、鹿鳴館や宮中に納められました。鹿鳴館でのダンスパーティーなどにも使用されたり、その他、ある迎賓館から大量の注文を受けた記録等も残されています。

禁裏製品から宮内庁御用達へ

洋食器と合わせた中に宮中に収めたものがあり、それらの特製コーナーを作っております。いわゆる禁裏の製品です。明治に入ると宮中という言い方をしますが、江戸時代は禁裏製品という呼び方をされました。

この禁裏の菊文様がついているもの、これが特徴的なデザインですね。これは、宮中から来た図案の通りに作られたものです。基本的に宮中に収めるものというのは、後ろに窯の銘などは入れません。十六弁八重表菊という、菊の枚数や菊の形に規格があること、あと染付であることが基本です。余計な装飾はしないということも大切であり、余計な装飾は不敬でもあるというわけです。

明治に入ると、天皇陛下が使うのではなく、いわゆる宮家で使ったり、それこそ宮中の晩餐会で使ったり、というものには、色絵や金彩を施した製品も見えてきています。

変わった有田焼

こちらのコーナーには、ちょっと変わった有田焼が展示されています。江戸時代に作られていなかったわけではないのですが、明治に主流があったようです。パッと見には漆です。どう見ても漆ですね。でも焼き物であり、漆塗りの焼き物ということで、おそらく長崎から漆塗りの職人を呼んで、彩色をさせたのではないかと思われます。

このあたりのケースには、大正から昭和にかけて、有田で活躍した窯焼さんたちの製品を並べています。ここにこのような展示をしたのは、最後のコーナーに象徴されているわけです。有田町長も務めたTOTOの元社長、江副孫右衛門氏、この方が、金婚式を迎えた時に、有田町からプレゼントされたのが、中央のお皿です。

これの製造は、ろくろ成形について初代の奥川忠右衛門、絵付けは、川浪養治とされています。参考リンク元>>> 

有田焼 師匠から弟子への伝承

この川浪養治さんという方は、日本画において、とても美しくてきれいな絵を描かれておられます。中央での活躍も期待されてましたが、残念ながら関東大震災の際に中央での活躍を断念して、有田に帰郷されました。その後、有田工業高等学校のデザイン科にて、教鞭を振るわれたそうです。明治~昭和以降、有田工業高等学校デザイン科卒業の方がたくさんおられますが、有田の町内には川浪養治先生の教え子となる方が相当多いかと思われます。

そしてこのお二人、奥川忠右衛門と川浪養治の師匠筋が、この後ろのケースに展示されています。先ほど陶山神社のところでお話ししました、ろくろの名工 井手金作と絵付けの名工 川浪喜作(川浪竹山とも呼ばれた)の作品です。つまり、ここには師匠と弟子のものを、比較できるように展示しているわけです。

そしてここから先には、奥川忠右衛門の弟子で、一番有名な方は、人間国宝の井上萬二先生であり、川浪養治先生はさきほども言いましたように、有田町内に多くの教え子が存在しているわけです。この陶磁美術館の展示コンセプトの締めとしては、師匠から弟子へと代々受け継がれていた力が、有田の町の姿勢に現在も息づいているという、そういう流れのお話となっておりました。この陶磁美術館は、こういうコンセプトのもと展示を行なっておりますので、ぜひ皆様ガイドでご案内される時も、このようなコンセプトに沿ってご案内をしていただけると、お客様への案内もしやすいかと思います。

再び、有田陶磁美術館 存在の意義として

またその後、街の中に繰り出して行く時、この師匠と弟子の作品から、続いて今もこのような形で有田の町中に根付いているという話にもっていきやすいのではないでしょうか。当館としては、やはり九州陶磁文化館が、あれほど名品を備えておられるので、展示等で何かしらの差別化をしないといけないと考えています。だから、旧田代家西洋館と合わせ、またこの街並みの雰囲気と合わせ、さらには黒牟田の方面など、外山の方面にも派生できることを考えているところです。