【有田町歴史民俗資料館東館・有田焼参考館】

説明;有田町文化財課 有田町歴史民俗資料館 永井 都様

こちら入口にあります動画「染付有田皿山職人尽し絵図大皿」を、通常は、先に見ていただいています。フルで見た場合、約20分ほどの長さですので本日は割愛させていただきます。

東館と西館があります。その違いは…

有田町歴史民俗資料館東館・有田焼参考館」というのが、この建物の正式名称になっております。東館があれば西館も…という疑問が出てきますが、西館もあります。西館は、旧西有田町が持っていた資料館で、有田町役場のすぐ近くにあります。ただし、設備的にも人員的にも、係が常駐できる状況にありません。したがって西館の見学希望者には、予約をしていただき、ご対応をとらせていただくようにしています。

東と西との違いを申し上げます。東はコンセプトとして、一日で有田町400年の歴史がわかる、というキャッチコピーを掲げています。西は先史から中世までの歴史、民俗資料等をご紹介するようにしています。

一般的に「歴史民俗資料館」と名の付くところは、まず古代、縄文時代の出土品など歴史の始まりから順次、民具や製作用具・道具等の展示物を並べています。ところが、この「有田町歴史民俗資料館」は、まったく違います。

それには理由があります。有田町のこの東地区には、焼き物の痕跡以外にないからです。発掘して出土するものや寄贈される収蔵資料の98%は、焼き物に関係するものになります。その結果、それに沿った展示になるわけです。この建物では、有田焼の作り方から有田焼にまつわる歴史などいろんなものを展示しています。

資料館と美術館の違いは…

その意味では、さきほど見てきた陶磁美術館九州陶磁文化館とも一線を画するわけですね。美術館や九陶が、完成した美術品としての焼き物を展示する施設であるのに対し、こちらの資料館は、それらの焼き物ができるまでだとか、製作する制度の裏側であるとか、焼き物の背景に関するものを展示している「博物館」ということで、主旨が大幅に異なる次第です。ただ九陶の常設展示のうち、最初の相当数に「有田町教育委員会提供」と書かれているものがあり、展示品一部の補完的な役割を担ってもいるわけです。

「染付有田皿山職人尽し絵図大皿」製作工程

最初に一面ガラスのコーナーをご覧ください。「染付有田皿山職人尽し絵図大皿」を元にした焼き物の製作工程についてご紹介しているコーナーです。ここで有田焼の作り方を逐一ご説明するのは割愛させていただき、お示ししたいことを一つに絞ってご紹介したいと思います。

職人尽し絵図大皿の絵柄を見て、「はい、これが江戸時代の焼き物の作り方です」と説明してきました。しかし、考えますと、これが本当に江戸時代の作り方の様子を示しているのかどうか、その根拠はなかったわけです。というのも、一般的に絵付け等の創作過程では、どうしてもデフォルメ(誇張して描く)しがちであり、この様子が100%正確である、江戸時代のものであるという確証が近年までありませんでした。

令和2年に行った企画展「足もとに眠る 有田焼工房を探る!」の図録があります。この中で、平成25年から27年にかけて行われた「泉山一丁目遺跡・中樽一丁目遺跡」の発掘調査から有田焼の工房や生産制度など分かったことがあります。この中から、職人尽し絵図大皿とほぼ一致する遺構が出てきたのです。

唐臼はあちこちの遺構で発見されてますが、唐臼の遺構などとともに、特に水そう(すいそうと聞き取れますが聞き取り不正確です)が全く同じ遺構から出てきています。その様子が図柄と全く一致するわけですね。

ということで、発掘調査によって、職人尽し絵図大皿に描かれている絵は、本当に現実に即してあったものだと照合ができているわけです。今までただ漠然と、これが江戸時代の作り方ですよ、とご説明をしていたのが、ここにまごうことなき証拠を得て、ご説明できるようになった、そのことをこのコーナーでご紹介したかった次第です。

《質問:「なぜ順序よく並べてないんですか?」について》


職人尽し絵図大皿自体は、間違いなく他にも存在が確認されています。まず陶磁美術館の展示品が一点、オランダにあるものが一点、イギリスにあるものが一点、全部で三点です。その三点とも全部が間取りの配置が違っています。特にオランダのものは、中央の柱がありません。動画で示されていますが、真ん中に描かれている幼児の絵柄、あの絵柄もありません。という風に絵柄に若干の違いがあります。

このように3点が確認されているのですが、実は絵柄が似てるけど、全然タッチが違うという大皿も、昨年一点確認されています。おそらく同時代、または若干時代が古い可能性もあります。ただ、それについても確証がなく、ただ間取りの配置を始めとして、全部が各々違うわけですね。

ここから考えられるのは、間取りごとにお手本があって、何枚もあるそれらを大づかみに写していったので、順番等は特に関係なかったんだろうなという推測はできます。確かにあまり順番はどれも一致してないようです。

製作工程いろいろ

こちらで江戸時代の焼き物の製作工程をご覧いただけます。展示しているのは、ほぼ江戸時代の初期・中期・後期の別が分かりませんが、おそらく後期のものと推定されるものになります。完品だけのものは、実は意外に少なくて、窯焼さん等にもあるのですが、どこか一部が壊れてたり折れてたりっていう状態になっています。

職人づくし映像の中に見る道具が結構ちらほら見られます。奥のケースにおいて、出荷の時に使った梱包の技術を見せています。この梱包の技術自体は、残念ながら、もう西さん(これを仕事にしていた方)がいらっしゃらないので、失われていく技術となっております。

平成版 職人尽くし絵図大皿

隣にあるのが、有田焼創業400年祭を記念して、昔の職人尽し絵図大皿があるのだから、平成版の職人尽し絵図大皿を作ろうとの趣旨に沿ったものです。それにより、ひょっとしたら後年役に立つかもしれないという平成の職人尽くし絵図大皿です。

ただ平成を表現する場合、例えば今右衛門窯さんのように、伝統工程をそのまま残している窯と、一方には、完全に機械化が進んだ窯とがあります。そのために、伝統工芸版と機械化オートメーション版との両方を残しております。この職人尽くし絵図大皿でも、製作工程を描いたものを動画で10分・10分の割合で流しています。

最後にまたこの展示室に帰ってくるために、先に参考館の方での説明をさせていただきたいと思います。(奥の参考館に向かう)

有田焼 磁器の始まり

歴史資料館として、本日、最も大切な事項…これだけ覚えて帰ってほしいなというコーナーがここにございます。何かというと、有田焼の磁器の始まりに関する内容です。皆様は、有田焼創業400年の時に、次のようなフレーズが頭に入っていることかと思います。

「1616年に李参平がやってきて、泉山で磁器を発見した。すなわちここが日本で最初の磁器発祥の地である」ということ。これを、ぜひ変えていっていただきたいと考えています。これから先も、この説でのお話を聞くことが多々あるはずですが、まずはこの説を払拭していただきたいと考えます。

有田焼の始まりですが、まずこの地で唐突に磁器が生まれたんですか?という話ですね。ここでは「いいえ」という答えになります。参考館の展示で分かりますように、もともと、この地では「陶器」を焼いていた、という土壌がありました。では、この陶器を焼いていた人たちは、どこから来たのでしょうか?

まずは陶器を焼いていた!

だいたい九州の磁器の始まりは、16世紀の後半、1580年代に唐津市の岸岳山麓に窯場が成立したことが分かっています。ここで成立した窯場の人たちが、1600年には唐津以外の周辺の地域に流れていきます。その人たちの一派が、有田にもやって来て、ここで陶器を焼いているのです。

最初の時期に来た地域は、現在の、ホームセンターユートクの裏辺りとか、有田町警察署の幹部派出所の近くとか、その周辺になります。この周辺の地形的な特徴として、平野部であることが挙げられます。

いわゆる磁器の始まりとされている泉山から内山地区にかけて、山間部、山の谷あい、谷筋の町という説明を皆さんよくされると思います。しかし、ここでは農業が出来ないのです。農業が出来ないと、当時の窯業はどんなに頑張っても食べていけないという事情があります。

農業との兼業でなければいけなかった理由

李参平の最初の金ケ江家文書にも明確にこう書いてあります。最初に乱橋(みだればし)に移り住んで、農業で開墾する傍ら焼き物を焼いたとの記述です。当時、人が暮らしていく上では、現在のような貨幣経済ではなく、年貢米からなるお米を根拠とした経済活動を営んでいました。そこで農業を度外視した行動というのはとれないわけです。

そのような(農業と関わり合った)陶器の技術の中から磁器が生まれてきます。小溝上(こみぞうえ)一号窯・二号窯と小物成窯(こもんなりがま)という窯跡がありますが、この小溝という地名は、他の文書から、李参平(金ケ江三兵衛)のことを「小溝三兵衛」と書いた資料が出てきたりします。おそらく三兵衛が関わっていた窯ではないかと考えられます。そこからまさにこのあたりで、突如として最初の磁器が生まれてくるのです。

泉山より先に磁器を焼いていた場所

冷静に考えてください。泉山の磁石場からここ(南原地区)まで、相当距離があると思いませんか?この最初の磁器が出来たのが、1610年代中頃ということは、現在発掘調査から分かってきています。つまり、一番最初の1610年代中頃、この時に小溝上とか小物成とかの窯で焼かれた磁器、これらは泉山の陶石を使っておりません

ですので、泉山の発見年代はもうちょっと後になります。というのも、最初は陶器で焼いており、その同じ技術で磁器を焼いているわけですね。そのために、陶器と磁器が一緒に接合されて出土されるケースもたくさんあります。そのような状態にある時に、多くの人が、有田の町に移住して来ますので、誰が最初に磁器を焼いたのか?果たして金ケ江三兵衛だったのか?(他の文献に出てくる)家長庄右衛門とか、高原五郎七とか、色んな名前が出てくるのですが、最初に焼いたのがこの中の誰だったかは分かりません。

陶工たちの共通行動

この辺りの人たち全員が共通して同じ行動をとっています。まずは最初に、小溝から南川原、乱橋など、この地区に移り住んで、その後、原材料が枯渇したので、方々を探したところ、泉山の磁石場を発見し、そして天狗谷を作りました。つまり行動は三人とも共通しています。なぜ三人が、ほとんど同じ行動をとったのでしょうか?

これは状況証拠に過ぎませんが、小溝あたりで磁器が焼けたからでしょう。磁器が焼けたから、陶工たちが他所からたくさん流入してきた結果、原材料も不足してきたわけです。原材料が無くなったので、方々を探し回った結果、ようやく発見したのが泉山の磁石場でした。泉山の磁石場が発見されたことで、大規模な、豊富で良質な原材料が、ここから手に入るぞとなったわけです。そして、磁器専用の窯として、天狗谷の登り窯が築かれました。確かにそこで陶器を焼いた痕跡はありません。磁器専用の窯を、ここ天狗谷に築き上げた、ということになります。

泉山磁石場の発見はいつ?

ここから、有田が磁器生産一本で食べて行けるだけの生活圏が出来上がった、ということです。泉山の磁石場の発見年代を強いて挙げるとするならば、天狗谷の創業とそれほど年代が変わらないはずです。すなわち1630年前後というタイミングになるはずです。

となると、巷で言われている説とは、大分違うことになりますね。順序なども結構入れ替わっています。例えば最初の説に戻りますと、1616年という年は、金ケ江三兵衛が磁石場を発見した年ではなく、彼が有田に移住した年になります。移住した年にすぎません。ただその年、1616年には、いろんな付加情報が後世勝手につけられた可能性があります。

最初に移住した年に多くのことが行われていることになり、結構忙し過ぎる状況があります。つまり、移住した年に陶石を発見して、最初の磁器も同時に焼くというプロセスは、どう考えても忙し過ぎると思われます。文明の発達には過渡期というものがありますから。

《質問:小溝辺りに原料(陶石)があったと考えられるのですか?》について


そのように推測されています。現在でこそ、小溝とか乱橋辺りから泉山に至るまでは、国道が一本であり近距離ではないかと思いますが、当時はそうではなかったのです。現在の有田の西の方には農村がありました。縄文からの遺跡等により、人の生活していた痕跡が残されています。しかし、残念ながら、有田の東部については、「有田は深山にて、人家まばら」と思いっきり書いてあります。つまるところ、ここには何も無かったのです。

何にもなかった、だからこそ人の流入が可能だったとも言えるわけです。ただ有田焼が飛躍的に発展する礎は、間違いなく泉山磁石場の発見が契機となります。しかしながら、古文書には、一言も書いてないのです。つまり「私が最初に磁器を焼きました」ということは、誰も書いていません。

みんなが書いているのは、「私が泉山を発見したのです」という事柄です。泉山を発見したと記されているのは、頭である金ケ江三兵衛しかり、家長庄右衛門しかり、高原五郎七もしかりです。すなわち泉山の「発見」が、磁器生産における重要なキーポイントとなっているという考え方です。泉山が発見されたからこそ、前述したように、農業主体の磁器生産体制ではない、つまり農業との兼業でない、磁器一本の体制によって、この町の生活を全て賄うだけの礎ができたという次第です。

藩の統制管理による有田焼

このように有田の東には、1600年代に突如として磁器が生まれ、その後、1630年代に磁器生産の体制が整ったわけです。そして、その直後に藩が目をつけます。藩は、この地に生まれた磁器生産、これは産業としてお金になるぞと。有体に言えば、税金(運上銀)が取れるぞと考え、この地を管理対象とします。という経緯により、この内山地区という場所は藩が人工的に作り上げた町ということになります。

まず、あちこちに乱立していた窯場を内山地区に集中化させます。次にこの内山地区を、高級品の量産地として開発を進めていきます。というのも、現在以上に泉山にほど近くて、山間の谷間で、登り窯を形成しやすいし、水も豊富である、松材など燃料も豊かである。それで、東と西の口屋番所、白川の代官所等で封鎖してしまえば、誰も入ってこれないという、かなり特徴的で機密保持に有利な地形をしています。佐賀藩鍋島領内の有田町は、大村藩、武雄領、平戸藩…など各藩に接していることも特徴的で、産業育成に理想的な位置にあります。

《質問;李参平の磁石場発見の話は、分かっていたが、作為的な意図で従来の1616年とされていたのか、それとも、最近になって、事実関係が明確になってきたのか?》について

(質問内容がよく聞き取れませんでした。岩井専務、もし違ってたらご指摘ください)

まず、この事実(李参平の移住が1616年、磁石場の発見が1630年前後)については、既知のことでした。脱線することになりますが、補足説明をいたします。江戸時代に、磁器の創始者と言われてた伊勢五郎太夫という人がいます。伊勢の国の人で祥瑞(しょんずい)五郎太夫とも呼ばれていました。景徳鎮産の焼物が、景徳鎮に現製品として残ってなくて、日本にしか現製品が残ってないため、それらは日本人が作ったのだと江戸時代の人が、本気で考えていた節があります。

で、後ろにかいてある「五良大甫(ごろうだふ)」という銘と、五郎太夫というのが、名前が似ているため同一人物だと思われていました。驚くかな、明治の中ごろまで、この祥瑞五郎太夫さんは、磁器の創始者として扱われていたのでした。ある記事によると、明治10年頃に、本当は李参平だと思われるが、五郎太夫さん説の方が主流である、などと書かれた書物が残っていたりします。それと一緒に家長庄右衛門などの名前も上がってはいます。

金ケ江三兵衛が磁器創始者とされる理由

それでは、なぜ李参平が磁器の創始者になったかと言うと、圧倒的に資料の残り方が違う、李参平、金ケ江三兵衛の資料が多い、ということです。あと金ケ江三兵衛と多久家のつながりもその要因です。金ケ江三兵衛は多久家の仕官です。有田の窯焼さんの中には、「仕官」という侍身分になっている人がいます。つまり三兵衛は、直接多久家に陳情をもの申せる立場にあり、一定の役職を持っていたようです。かなり地位が高いということが分かります。

佐賀藩の系統を調べていくと、多久家というのがどれだけ重鎮なのかということが分かります。下手すると藩主より強いのでは、と思えるぐらいの力までうかがえます。元々佐賀藩は、龍造寺の管轄でした。一方多久の方は、そもそも龍造寺に仕えていたお家ですので、鍋島の殿様といえども、多久の殿様に対しては、それほど強く言えない立場であったろうと推察されます。

金ケ江三兵衛は、その特別の有力家臣である多久家の「仕官」であったわけです。その人がわざわざ、…有り体に言ってしまうと、バックに多久のお殿様をパトロンとして立てつつ、有田に乗り込んできた。もうどう考えてもリーダーとしての立場になるでしょう。

このような状況から考えると、仮に三兵衛が、本当の発見者でなかったとしても、その集団を率いていたリーダーとしての三兵衛であり、その名前が残ったのは当然であろうと。加えて、他に名前の挙がった人たちに比べて、圧倒的に資料のボリュームが多かったし、資料の信憑性の高さからも三兵衛説が有力となりました。

もう一点、金ケ江家は、その後の陶石の採掘の管理権の一部を担っていたことも、その理由に挙げられます。つまり、いくらなんでも発見もしてない人物に、そんな重責を与えることはないだろうという推測です。推測にも信憑性が加わる理由として、金ケ江家に残されているものが私的文書ではなく、多久家に提出された公的文書だったという点があります。

このような様々な事情を考慮すると、三名のうちでも、金ケ江三兵衛が一番可能性が高いということになります。余談ですが、結構面白い話として、家長家の文書の中には次のような記述があります。「実は、我々が泉山を発見したのに、朝鮮人にその功績をとられた」とのこと。

金ケ江三兵衛の「陶祖」たる評価について

勘違いされてることがあります。前述しましたが、近年に入って、「陶祖」李参平の功績というのが「日本で最初の磁器を焼いた。それにより陶祖と称された」とされています。しかし、大正時代に李参平の石碑が立つ、その前まではそういう評価ではなかったのです。陶祖としての評価は、この有田400年以上を支えてきた磁器生産の礎と、これから先、食っていけるだけの原材料と、その後の道筋を作ったということにありました。

後年になり、伝言ゲームのように付加情報が加わり、事実が変質していったことも推察されます。評価は、ただ単に最初に磁器を焼いたからというわけではないんですね。陶祖 李参平の「陶祖」の意味は、本来は、この産地の未来の産業のすべてを決定した大恩人である、という評価の方が納得性が高いことでしょう。

さて、佐賀藩の統制の下、有田磁器が開発をされていきます。ここで、この線を境として左右の違いが分かりますでしょうか?色ですね。デザインですね。より洗練されたデザインと制作に変わってきてます。さらに正確に言うと、高台径が大きくなってますし、高台の形も丸っこくスッキリしたデザインになっていきます。

赤い線の右と左を比べてみてください
初期伊万里様式と古九谷様式

有田焼は市場原理に沿ったものづくりから

有田磁器の始まりについて述べたいと思います。当時の有田磁器の一番の特徴は、朝鮮半島の技術を使って、最初から「中国風の」デザインを作ったことです。技術自体は朝鮮半島のもの…だからその技術で、朝鮮風のものをそのまま作ってたら、青磁か白磁がメインになっているはずです。ところが、作ってるのは染付であり、中国磁器に近い感じです。

つまり、ここには、市場原理が働いているわけです。人気があるのは中国磁器です。江戸時代当時でも、まずは需要があるものを作ろうとします。ですので、文書上残されていませんが、必ずや中国人の介在はあったと考えられます。なぜならば、呉須は日本では自製しません。日本で自製しない絵の具を使って、これだけのものを作っているということは、呉須の入手ルートがどこかにあったはずなのですが、残念ながら、現在ではまだ解明されていません。

このような中国風のデザインについて、想像できるのは商人の介在ですね。赤絵の始まりのときに出てくる伊万里の商人の東嶋徳左衛門など、あのあたりの有力商人たちの介在(呉須入手のルート)だろうとも想像はできるのですが、これもまだ明確な証拠は出ておりません。

中国っぽい、より大量生産に適したデザイン(…デザインというより技術でしょうか)が上がってきます。1640~1650年ほどに、この高台径を含むデザイン様式が普及して行くことになります。この時代に、世界史上で大きい出来事が起こりました。

中国の海禁令は有田焼の海外展開の契機

中国が海禁令を出しました。

海禁 - Wikipedia


つまり、中国が鎖国政策をとって、海外に輸出できなくなった時期に、中国と同レベルの技術を有する有田が出てきたわけです。ここから有田の海外輸出が始まります。これが1650年代のことです。タイミングが良かったという説もありますが、中国が海禁令を取ったそのタイミングには、既にここまで有田が高い技術力を向上させていた、というバックグラウンドもあるわけです。

こちらが当時の海外輸出の時のコーナーになります。そもそもこの部屋は何の部屋なのかの説明が遅くなりました。この部屋、有田焼参考館という名称で、有田町内で確認された66カ所の窯跡8カ所の遺跡から出土された陶片を、体系的年代別に並べて展示している部屋になります。このコーナー、主に海外輸出向けのコーナーになります。ここでのポイントだけを挙げていきたいと思います。先ほどデザイン的に、中国を模倣したというお話をしましたけれど、ここで変換できます。

柿右衛門様式の登場

いわゆる柿右衛門様式です。大陸のデザインというのは、主に左右対称の美なんですよ。対して、日本のデザインっていうのは左右非対称の美、つまりマイナスの美とか、「白を描く」とか、余白の美とか、いろいろ柿右衛門様式について言われています。これは、日本独特の感性なんですね。例えば、空間に線を一本書いたとき、それをただ単に「線」と認識するのが西洋人の思考であり、その線に何かしらの意味を持たせて考えるのが、日本人の思考とも言われています。日本人は、一本の線を「これは水平線なのか地平線なのか?」「何かの境界なのか」とか、そこに意味を考える思考性向があります。

このように、日本的なデザインが始まりましたが、残念ながら、柿右衛門様式のマイナスの美については、このような問題もあります。絵がうまい人がそのデザインを描けば、相当に綺麗に出来上がりますが、下手な人が描いたらただの手抜きにしか見えません。現実問題として、先ほど挙げた66カ所の窯場において、見られた現象です。窯場によりけりで、生産物のランクが違います。ランクが違うことにより分かること。最新の技術は、高級品の窯場で使うんですね。つまり、下級品の窯場というのは、前時代の技術も使っています。必然的に高級品を焼いていた窯場は、当時の最先端の技術力を持っていることになります。そしてパクられることがあります。だから柿右衛門様式も、パクろうとするのですが、下手が模倣したら、本当に手抜きにしか見えず、その結果、逆に普及しないという現象がありました。

金襴手古伊万里様式とその他の輸出品について

それとは逆に普及したのが、これから出てくる金襴手古伊万里様式です。こちらは、分かりやすいですよね。とにかく緻密に描けば描くだけ豪華になります。こちらがその後、普及して行くことになります。ところで、この辺りのケースですが、先ほど隣の金襴手のケースから比べたら、デザインがかなり簡略化されていませんか?

有田焼の海外輸出と言えば、金襴手に代表される派手なデザインをイメージしがちですが、最初に出たのは、カンボジア行きの粗質の磁器でした。この辺りが東南アジアに向けて送られた粗質の磁器、いわゆるそれほど上質じゃない種類のものです。一部の陶片からは、鳳凰のような絵が見えますけど、もっと簡略化されたものだと、三本の線しか描かれてないものもあります。つまり、こういうことが言えるかと思います。基本的に有田の磁器は、皆、手描きです。で、手描きを低コスト化しようと思ったら、図案の簡略化という方向に向かわざるを得ない。そのような生産品の集まりです。

しかし、とはいえこれも東南アジアの食生活をちゃんと反映させたものになります。相手国は、どんぶり文化なので、それに即したどんぶり形状のものを作っています。これも中国が、海禁令をとったので、東南アジアの国々も、中国から仕入れることができなかったことに起因することです。高級品だけじゃなくて、下級品も実は、有田が海外輸出をしていた。意外にこのことを知らない人が多いようです。

中国の展海令による巻き返し

中国が海禁令を取ったから、中国磁器が入らなくなった、そのために有田の磁器が注目されたと申しましたが、今度は(有田にとって)残念ながら中国が復活します。中国は、明から清に政権が代わっていきます。それにより、鎖国(海禁令)を止めることになります。そうなりますと、やはり品質面でも量産化でも優れている中国磁器が瞬く間に、日本磁器の、それまで持っていたシェアを取り返していくわけです。

では、そうなってきたら、有田の磁器はどうするかというと、国内市場に向けて市場を転換していくことになります。こちらは、その後、国内市場向けに、生産体制の改革を行っているところです。その後、下級品のシェアも食われていくことになります。後年度になってくると、波佐見の「くらわんか」碗なども出てきて、販売が思うに任せず、国内市場でもシェアを食われていくことになります。

有田磁器 幕末・明治期 付加価値から普遍への変遷

そして明治期になります。幕末から明治になると、もはや磁器であるというだけでは、付加価値と言えない時代になります。歴史のことを話していくと、400年前の磁器創始期と100年前の明治のことを解説しているうちに、たまにごちゃ混ぜになることがあります。しかし、そこにも300年の隔たりがあります。私たちからすると、どっちも昔のことではありますが、その辺りの違いについても、注意してよく説明していただければと思います。

今から150年以上前の幕末のころは、磁器が一般層にまで普及しています。磁器創始期の約400年前の頃は、磁器であるというだけで付加価値があったのですが、幕末になると時期は割と普遍なもの、普通にそこら辺にあるものになります。一時期はそれこそ王侯貴族しか使えなかったものだけど、一般庶民にまで磁器製のお皿で食事ができるような時代になったわけですね。

このように価値観というものが変わってきており、そのような中、有田磁器が今後どうやって生き残っていくかを考えたとき、原材料や技術の改良という方法に当たりました。合成コバルトや石炭窯などの技術導入が明治に入り行われます。明治に入ってから、技術革新等を通じ有田焼を盛り立てていこうと、その機運を示すのが、またこれから戻る「展示室」の方にございます。

江戸期 藩の保護・統制の様子

江戸時代、有田焼が藩の統制下にあった、それを明確に示す資料が、この窯焼名代札とそれに付随する職人札です。今で言う営業許可証と免許証でしょうか。厳密にそれらとは異なりますが。札の後ろには、運上銀つまりかかる税金の金額が書かれており、しっかりと藩がお金を徴収する仕組みが出来ていたわけです。これらの札も発行枚数が決められており、無闇に乱発することはできませんでした。

ちなみに、赤絵屋と窯焼は兼業することができないというルールも、その後できますので、藩として、保護と管理の両面から統制をかけていくわけですね。管理のみならず藩の保護があったので有田焼の発達のプロセスがあります。

明治期 有田焼の技術革新へ…

ここから三つのコーナーが、明治時代に技術革新を成し遂げていった様子を示すものです。古文書の体裁で書かれているので、古いものかと思いきや、フランスのリモージュ社から製陶機器を買った際の取扱説明書になります。先ほど陶磁美術館で見た洋食器などを作るための機械の取扱書です。

その後、泉山の陶石から天草陶石への変換ですね。泉山と天草とを見比べていただく展示です。

原料自体の変換に加え、こちら呉須から合成コバルト顔料への変換というふうに、この辺りのコーナーが、江戸から明治への新しい技術への転換を表したものです。

この時期の競争は、瀬戸や他の産地に留まらず、いきなり国際競争に巻き込まれるようになります。敵は日本だけでなく海外に。海外製品との競合環境となるわけです。…ということで、駆け足にてこの有田町歴史民俗資料館の案内をさせていただきましたが、終わらせていただきたいと思います。資料館の方には、また別途、戦時中の有田焼のコーナー等たくさんの展示物があります。まだ説明不足のところもあろうと思いますので、ガイドするにあたって、不明な点がありましたら、是非いつでもご連絡によりご回答したいと思います。どうぞよろしくお願い致します。

本日の説明を含めた当館の「展示ガイドブック」は、300円で販売しています。また英語版も用意しており、こちらは限定数(30部)まで無料で配布しています。